この2ヶ月に何があった?

 火曜日早朝に作業を一段落させたあと、2日ほどだらぁ〜と過ごし、続いて映画館に2日連続でハシゴをしてきたことで、どうやら心身共に少し落ち着きを取り戻しました。半分くらいは作業で忙殺されていたわけですが、ここまでいっぱいいっぱいになっていたのには、如何ともし難い事情がありました。

 私が松江旅行から戻って約1週間後、父が他界したのです。



 弔問に来られた方も、多くが“突然”と仰言るほど急な出来事に思われているのですが、家族からすると決して突然ではありませんでした。

 もともと父方の家系は1型糖尿病の家系で、祖父、曾祖父もこれに起因する心臓疾患で急逝していました。そして父も数年前に心筋梗塞を発症、病院に担ぎ込まれています。このときは発見が早かったこともあってカテーテルによる処置で事なきを得ましたが、その後の検査で心臓の弁に問題があることが確認されました。早急に対処する必要はないが、いずれ手術が必要、ということで、糖尿病のための通院と並行して、経過を観察する期間が長くありました。

 その後、大腸からの出血が原因で腎不全を引き起こし人工透析が必要となるなど大きな変化も生じたものの、少なくとも2015年いっぱいは入院もなく、平穏に過ごしていたのです。

 しかし今年の春頃から状況が変わっていきました。胆嚢に石が溜まる、といったことから少しずつ不調を訴えることが増え、検査も含めて複数回、入院をしています。この中で、そろそろ心臓の弁の処置が必要だろう、という判断が下され、10月に手術が実施されることになりました。設定された手術日は、10月6日でした。



 この日記を辿っていただければ解るとおり、10月6日、私は松江旅行のため、この日の夜にサンライズ出雲に乗車しています。父の手術の日程が決まったときは、さすがにこれは断念せざるを得ないか、と思いました。

 ただ、この手術、時間を要する大変なものですが、成功率は低くない。とりわけ、父のかかりつけの病院(私にとってもかかりつけです)は、この分野を牽引する海外の病院とも連携をとっており、技術的には日本でもかなり高いレベルにあり、成功率は9割を上回るほどなのだそうです。それ故に、先に立っていた私の旅行の予定をキャンセルする必要はない、と父からも、手術前日に直接説明を受けた執刀医からも言われて――多少は後ろ髪引かれる心地を味わいながらも、私は出立したわけです。



 手術は、開始が半日近く遅れたうえに、非常時のために付き添っていた母が家に帰宅したのが翌日早朝になるほど時間を要しましたが、手術自体は成功しました。容態は安定し、翌日にはいちど意識も戻ったそうです。管が入っていたため声は出せなかったそうですが、母と意思の疎通もあり、話にしかめっ面もしていたらしい。安心して旅行を楽しんでおいで、と母からSMSでメッセージが届いていました。

 容態が変わったのは、まさに私が旅行から帰宅したあと、日曜日の深夜だったそうです。心停止を起こし、蘇生は出来ましたが、意識は戻らなかった。翌朝になって母のもとに連絡があり、大変厳しい状態だと伝えられました。

 落ち着かないなか数日が過ぎて、木曜日に担当医から呼び出され、こういう直截的な表現こそ用いませんでしたが、“絶望的”という告知を受けました。この時点で脳波は微弱になっており、遠からず脳死状態になる、というのが医師の見解でした。前々から母ともときどき話をしており、手術前にも看護師に対して意思表示があったことから、延命措置はせず、あとは成り行きに任せる、ということになったのです。

 この時点ではいつ、そのときが来るかも不明でした。長引くことも半ば覚悟していましたが、その週の土曜日午後に病院から連絡があり、もう間もなくだろう、ということで呼び出されました。とはいえ、いつになるかは本人次第ゆえ、母と私と交代で待機、そして日付が変わって間もなく、死亡が確認されたのです。10月16日0時35分でした――実はこの日、新耳袋トークライブがあって、当然ながら参加は断念したわけですが、奇しくもイベントが開始したぐらいの頃合いに亡くなったのです。お陰で、無駄になったチケットはちょっと特別なものになってしまった。



 成功率が高いはずの心臓の手術を経て、何故父が命を落とすことになったのか。

 事前の検査結果も踏まえて、おおむねの推測は出来ていましたが、担当医の側でもその点を明確にし、今後の参考にしたかったのでしょう、死亡が確認されたあとで、母と私に病理解剖の提案がありました。拒否反応を示す関係者も珍しくないはずの提案で、医師側はかなり案じられていたようですが、実のところ母も私も予測していたことだったのですぐに承諾、月曜日に解剖が行われ、死因の究明が行われました。

 届いた死亡診断書を見ると、家族にとっても納得のいく内容でした。

 もともと人工透析を受けている人間は、どうしても血管が硬くなりやすいリスクを負います。そこに加えて、父は最後まで喫煙の習慣を断てなかった。止めていた時期もあったのですが、気づくと隠れてこそこそ吸っていたのです。手術前の検査でその点は改めて戒められ、今度こそやめる、とは言っていましたが、既に手遅れだったのです。

 死亡診断書には“全身動脈硬化”とあるほど、全身の血管に石灰化が認められた。そしてそれは首筋の、脳に血を送る血管の狭窄をもたらし、せっかく心臓の機能が回復したにも拘わらず、そのポンプ能力を活かせずに、脳虚血を引き起こしていたのです。最終的な死因は、低酸素脳症である、という見解でした。

 とにかく血管がボロボロになっていたが故に、調べた結果、他の箇所にも多くのガタが来ていたようです。診断書には肝臓、脾臓も既に壊死していた旨が記載されていました。恐らく、心停止以降の処置のあいだにダメージが更に蓄積された結果ではあったのでしょうが、この状態では仮に手術から回復しても長くなかったでしょう。



 さて、ここからがなかなか大変でした。

 幸いに、父の友人が家族で葬儀関係の仕事をしており、別件でもたびたびお世話になっていたので、葬儀についてはすべてお任せ出来たのですが、残された家族は母と私だけ。交友関係はやたらと広かった父なので、連絡はもちろん、弔問に訪れた方に事情を説明するのにずいぶん時間を割かれました。なんたって、いまここで書いたことを何回も何回もお話ししたわけですから。

 当初の予定では17日から数日、私は手術のために入院するはずでした。土曜日、危篤状態を告げられた際にすぐさま決断し、同じ病院で手術だったこともあって、待機中にさっさと延期の手続をしてきましたが、つくづく正しい判断だったと思います。あの状況で私が入院していたら母にどれだけ負担がかかったことか。

 19日に通夜、翌20日に告別式、そして23日には初七日、と慌ただしく法事を済ませたものの、遺族にはけっこう色々な手続が残っている。そのあいだにも散発的に弔問に来られる方があり、何だかんだで10月中は精神的にもなにも手につかないに等しい状態だったのです。

 そうしたわけで、本来なら10月いっぱいで片付けるはずだった作業は大幅に遅れました。11月中は、あいだに手術を挟みつつ、必死にその遅れを取り戻すことに費やさざるを得なかったわけです――手術で思いのほか疲労が蓄積したことに、季節の変わり目ゆえの体調不良も手伝って、それもなかなかままならず、何だかんだで12月までずれ込んでしまったわけです。



 ――以上が、ざっとこの2ヶ月の出来事でした。

 私自身は、今年前半に入院したくらいから、父の死については多少なりとも覚悟を固めつつあったとはいえ、それでもショックはショックでしたし、如何せんこの精神状態ではなかなか手につかない作業を背負っていたことも、11月いっぱいまで余裕を一切合切失っていた原因だったわけです。

 だいたい、松江旅行中も延々動き回っていたのです。直後にこうした事情で、疲労を蓄積したまま約1ヶ月半、ずーっと緊張状態を維持し続けていたわけで、自分で言うのもなんですが、そりゃあ疲れるに決まっている。

 ともあれこれで本当に少し落ち着いたので、ぼちぼちとペースを取り戻していこうと思います――映画感想まで再開できるところまで、年内に持って行けたら最善なんですけど。